手を、離さないで。
「――シーリン」
出来る限り静かに、動いていた。息を潜め気配を殺し衣擦れの音さえ立てないように。細心の注意を払っていたにも関わらずラスは気付いた。
「シーリン、いかないで」
今にも泣き出しそうな声で私を呼んで、縋るように腕を伸ばして、何かを恐れるように目は閉じたまま。哀れに思って手を差し伸べたら最後、一瞬で抱き込まれて身動き出来なくなる。
「ラス…」
「まだ早いよ。もう少し…ね?」
「もう九時よ? …私お腹空いた」
「あとでなんだって食べさせてあげるから、今は私の側にいて」
「いつもいるじゃない…」
どれだけ言ってもラスは聞かない。ラスティールの時ならもう少しは聞き分けてくれるのに。おかげで最近は朝食を逃しっぱなしだ。そのうちレイが訝しがって様子を見に来るような気がしてならない。リーならともかく、レイはきっとそういう空気は読めないだろうから。
「何考えてるの」
「ラスの事」
「うそ」
「…レイの事。そのうち様子見に来たりして」
「来たって入れないよ」
「そうね」
でも多分、ラスが牽制のために敷いてる結界なんてレイがその気になればどうにか出来るはずだ。多少無茶でも、必要だと思えばレイは躊躇わないだろうし。
「気になるなら、釘刺しとく」
「なんて?」
「…なんて言おう?」
「それより結界強化した方が早くない?」
「それこそ怪しまれると思うけど…」
じゃあどうするのが一番良いんだろうと、考えかけて気付いた。
「そもそも、ラスの事って隠さなきゃいけないの?」
「バレたら面倒だよ」
「どんな風に?」
「…一緒の部屋で寝るなとか言われそう…」
「…へぇー」
「今どうでもいいって思った?」
「思った」
「ひどい」
「だってそれ、私に害がないじゃない。ラスが寂しくて死ぬだけでしょ?」
ぐずぐず鼻を鳴らしながら私に縋って、ラスは何度も「ひどい」と呻く。嘘泣きだ。顔を押し付けられた場所が素肌だからよく分かる。けどそれを指摘すれば本当に泣き出しかねない。そうなると後が厄介だ。
「ねぇ、ラス。私お腹空いた」
「…リーに持って来てもらう?」
「いいけど、その前にラスティールに戻ってね」
「――わかってるわよ」
バサリと音がして、現れたジズが翼を広げる。女に戻ったラスティールは呆気なく私から離れて服を着た。こういう時、ラスとラスティールが本当に同一人物なのか分からなくなる。ラスに比べて、ラスティールは随分と大人だ。
「リクエストはある?」
「フルーツサンド」
「いいわね」
ベッドの上で座ったままの私におはようのキスをして、ラスティールは部屋を出る。と言っても扉の外に少し出るだけで、リーを呼んで朝食の用意を頼むとまたすぐに戻ってきた。
「ほら、服着なさい」
「自分が脱がせたくせに…」
「胸元が開いたのは駄目よ。見えるから」
「消してよ」
「だーめ」
私が今日着るつもりで用意していた服をクローゼットに放り込んでラスティールは別の物を用意する。見覚えのない――つまり新しい――服だ。相変わらず趣味は悪くないけど気が知れない。首元にキスマークを付けたのは絶対にわざとだ。
「あれ着たかったのに」
「駄目よ。駄目。今日は私とデートなんだからこれを着るの」
「デートって…いつもの視察でしょ?」
「二人で出掛ける時はデートよ」
わざわざそんな事しなくてもちゃんと言ってくれればそれを着るのに。面倒臭い。
「その理屈でいくと私しょっちゅうヴェルメリオとデートしてる」
「運転手兼荷物持ちは例外」
「ならラスと出かけてもデートにならないね」
「ラスティールの時なら問題無いわ」
「皆に「彼女です」って紹介していい?」
「ラスの時に「連れ合いです」って言っても良いならね」
冗談めかして言ったラスティールは手の動きだけで私をバスルームへ促した。顔を洗ってくるようにと、言外に言われて私は上掛けを引きずりながらベッドを下りる。
「いいけど…ラスの格好で外に出たらレイにバレるんじゃない?」
「え…いいの?」
なんとも形容し難い顔をしたラスティールが持っていた服を取り落とすのと、扉が外から叩かれるのとはほぼ同時だった。
「誰?」
「リーです」
「どうぞ」
ラスティールの結界は、入ろうとする者が名乗って私かラスティールが入室を許可すると一時的に解除される。
私はリーが廊下側の扉を開けきるより早くバスルームに入って彼女をやり過ごした。
「――指輪買いに行かない?」
部屋に戻ると、ローテーブルの上には見るからに美味しそうなフルーツサンドが二人分。飲み物と一緒に用意されていた。
「行かない。なんでラスに戻ってるの?」
「ドーシーに頼んでも良いよ」
「作るなら自分でやって。大体なんて言うつもりなのよ」
「結婚します」
「死ねばいいのに」
張り付いてくるラスを引き剥がして服を着て、行儀悪く床に座った私をラスは自分の膝に攫う。押さえつけるように抱き込まれても、フルーツサンドに手が届きさえすれば気にならなかった。
「私を殺せるのはシーリンだけだよ」
ラスの鬱陶しさが空腹に勝てたためしは無い。
手は離さないで。
(告げる朝)